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ナンバーワン戦略のチカラ  鯵の生食加工で日本一企業を創り上げた軌跡

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rend&News ■講演 株式会社ジャパンシーフーズ会長・井上幸一氏

ナンバーワンとナンバーツーの企業では、ブランド力や利益率に圧倒的な差が生まれる。そのため、いかにナンバーワン企業となるかは、企業経営において非常に重要なテーマでもある。福岡市に本社を置く株式会社ジャパンシーフーズ(井上陽一社長)は、ナンバーワン戦略を打ち立て、鯵の生食加工で日本一となった。コロナ禍でも売上を伸ばす同社を創業し、日本一企業に育て上げた井上幸一会長にナンバーワン企業になるまでの経緯を語ってもらった。(2022年11月18日、異業種で構成する団体・未来経営事業協同組合による対馬工場見学時の講演内容を抜粋、編集したものです)

井上幸一会長

魚屋には絶対ならない

当社は、水産物の加工・販売業を営んでいますが、加工するのは鯵、鯖の生食に特化しています。鯵製品としては、鯵のたたき、鯵スキンレスフィーレ。分かり易いのは、寿司の上に乗っている寿司ネタの鯵です。そして鯵刺し。鯖は生鯖を加工してフィーレを作ります。スキンレスピンボーンといって鯖の皮をはいで、中骨も1本ずつ抜きます。すぐに刺身にできる状態にまで加工します。他にも生しめ鯖や柚子しめ鯖、梅しめ鯖など、生から加工する製品にこだわっています。現在、福岡に本社を置き、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、そして福岡に営業拠点を設けて販売を行っています。
これらの商品は、量販店、特に食品スーパーの鮮魚売り場で展開する商品です。一般消費者向けにも「鯵本舗」という通販サイトを運営しています。サイトでは、「極みしめさば」や「開戦贅沢茶漬」といった、こちらも生から加工した魚を使った「うまかシリーズ」として直接消費者にお届けしています。一部ですが外食産業やドラッグストアにも卸しています。

さて、今日は「ナンバーワン戦略」というテーマをいただいていますが、創業当時からかいつまんでお話しします。
私は、昭和23年8月19日に5人兄弟の3男として生まれました。男ばかりの兄弟です。父は終戦後、柳橋連合市場で創業し、鮮魚店「天竜」を営んでいました。私の兄弟は皆、天竜に入って魚屋をやっていましたから、私も魚屋になりました。しかし、元々は死んでも魚屋にはならないと思っていました。私だけは父から「好きなことをして良い」と許可をもらっていたこともあり、大学卒業はまったく違う業界で働こうと決め、自動車関連の企業に内定をもらっていました。

しかし、そのような時に、従業員の退職が続き人手が足りなくなるなど、家業が大変な時期を迎えていました。「こんな時に、自分だけ勝手にしても良いものだろうか」と思い悩んだ末、父の会社に入る決心をしました。死んでも継がないと思っていたものを、方向転換したわけですから、死んだ気になれば何でもできるという覚悟を持って家業に入りました。

入社したものの、それまで人に使われたこともありません。生意気で横着な新人でした。そんな私を心配して、母が松下幸之助氏の『素直な心になるために』を読むように薦めてくれました。この本がきっかけとなって幸之助氏に憧れ、氏が提唱した水道哲学などいろんなことを学びました。そして、自分なりに社会に貢献できる生き方をしようと考えるようになったのです。

創業当時

人材不足を解消したい

父がスーパーや百貨店に出店していましたので、兄弟は、各店の店長として店を任されていました。私は、博多駅に入っていた博多井筒屋というデパートの6階の店舗を任されました。当時の日本は、高度成長期でバブル景気といわれる時代でしたから、魚も良く売れました。しかし、常に人手不足に悩まされていました。募集してもある程度の人数は応募してきますが、私が求める人材が集まりません。

魚は売れるのに加工する人が足りない。この悪循環をどうしたら解決できるかと考え抜いた結果、自分なりに導き出した答えが加工場を作ることでした。各店舗で行っていた加工を1か所にまとめれば、店舗では少ない人数でも販売ができるはずだと考えたのです。そのことを父に提案しましたが、認めてはもらえませんでした。それでも加工場を作るべきだという思いを持ち続け、父の跡を継いで社長になった長男にも加工場の必要性を訴えましたが、承諾は得られなかった。加工場を作るには自分で会社を興すしかないと決意し、昭和62年1月に会社を設立しました。

箱崎工場

すべてが失敗

社名は今と同じ、「ジャパンシーフーズ」です。日本を代表する企業になるという思いで、大きな名前を付けました。当時は、「誰がこんな名前を付けたのか」と笑われたものです。それに対し、「今に見てろ」と思いを強くしたのを覚えています。
会社を立ち上げた頃、頭の中では幾つもの商品開発のアイディアが浮かび、それがことごとくヒットしましたし、自信もありました。しかし、いざ企画した商品をマーケットに出すと、全てが失敗してしまう。

失敗の連続は3年程も続きました。まさに、暗闇の世界を歩いているような感覚でしたね。当時は、トラフグの刺身やエビのむき身など処理したものをギフト商品として販売していて、今のようなアジやサバの加工はまったく手掛けていませんでした。どんなことをやっても商品が売れないので、魚市場の中で魚を引き取る「荷受け」という所に原料として鯵を出荷しました。ただ、同じ大きさの規格品しか扱ってもらえないため、規格外の魚が残ってしまう。売りものにならないので、それらは社員が持ち帰って夕飯のおかずにする。当然、利益が出るはずもありません。そんな状況ですから、会社は赤字続きです。

そこで、規格外の鯵を加工し始めたのが、大きな転機となりました。最初に加工品を買ってくださったのが、柳川の筑後魚市さんで、その時の有難さは今でも覚えています。この時に買ってもらったことで、「マーケットがある。これならいける」と確信を持つことができたのです。鯵の加工品を軌道にのせれば、どうにかかるだろうと思えました。その時、スーッと光が差した感覚を覚えたものです。

鯵の加工は、頭を取って3枚におろしスキンレスにし、それらを並べて真空パックにします。手間がかかる工程ですが、これらを手作業で行っていました。マーケットを創り出すことができても、これでは時間とコストがかかり過ぎて採算が合いません。従業員からも「赤字の商売は止めましょう」といわれた程です。しかし、私の中では、機械化すればなんとかなると確信していましたから、従業員を説得しながらなんとか続けました。

鯵の加工品が大ヒット

そうして続けていると、鯵の加工の需要が伸び始めました。懸案だった機械化も実現しました。そして、私の予想は的中し鯵の加工品は大ヒット商品となり、今度は手が回らないほど忙しくなりました。加工品は原料に比べて利益率が高い。需要が伸び機械化を進めたことで、かなり利益を出せるまでになりました。言い方を変えると、儲かり過ぎたんです。そうなると、税金を納めるのがもったいないと思うようになり、いろいろなものに投資をするなど迷走します。中国の大連に事務所も出しました。名刺に大連事務所と入れて、手広く事業を展開しているとアピールしたりしました。

しかし、中国での事業では大失敗でした。利益率の高い商いをしていましたので、中国事業で失敗をしても最悪の事態には至りませんでした。運が良かったんだと思います。
鯵の加工が成功し業績は順調に伸び、年商13億円位まで拡大しました。しかし、我々の事業が拡大すると、他社から関心を持たれるようにもなる。利益率が高い魅力的な市場として、我々の市場に参入してくる競合が増えたのです。年商300億のグループ企業も参入してきました。当社が先発とはいっても、相手は売上規模で20倍も大きい。かなりのシェアを取られ、13億円あった売り上げは10億円にまで落ち込みました。それでも、打つ手が見つからず随分悩みました。

ランチェスター経営との出会い

そんなある日、ふと立ち寄った書店で1冊の本に出会います。『ランチェスター法則のすごさ』という本です。この本を読んで、自分の間違いに気づくことができました。それまでの私は、「良い商品は自動的に売れる」と考えていましたが、ランチェスター法則では商品3、営業7と、営業の重要性を説いていました。商品はそれだけでは売れない。人を介さないと売れないということに気づかされました。私は著者である竹田陽一先生に師事しました。竹田先生との出会いがなければ、今の当社はないといっても過言ではありません。

竹田先生が寺子屋式の学習塾を作られたので、私はその第1期生として学びました。ここでの学びが、その後を大きく変えることになります。当社は、創業当初から東京など福岡以外のマーケットを持っており、売上の比率は関東が60%、福岡が10%程度で、圧倒的に福岡以外で販売していました。この比率は、今でもほとんど変わっていません。

竹田先生からは、地域戦略において中小企業はエリアを広げすぎずに、地場に的を絞って商いをするように指導を受けました。しかし、当社の事業エリアは既に関東まで広がっていました。困り果てて竹田先生に相談すると、「井上さんだったら良い。その代わり条件がある」「確実に利益が出るようになったらお金をかけてもいいが、最初からお金をかけ過ぎてはいけない。軽装備で行って、うまくいかなければすぐに撤退しなさいと」と条件付きでお許しをいただきました。

「鯵で日本一になる」

その頃から本格的に成長し始め、その後は急速に売り上げを伸ばしていくことになりました。
もう1つ、大きな変化はナンバーワン戦略をとったことです。広域で事業を展開していましたが、竹田先生の教えに従い商品とお客様を絞りました。それが、「鯵で日本一になる」という戦略です。その頃は、フグ刺しをはじめ利益を出している商品を複数抱えていました。しかし、それらの商品群の中で「日本一になれる商品は何か」と考えた場合、フグは下関が強い。しかし、鯵は強いところがなかった。それで、「鯵で日本一になる」と宣言し、ナンバーワン戦略を打ち出しました。そうやって、鯵1つに絞り、経営資源を集中すると量がはけるようになる。量が出るようになると鮮度が良くなる。コストも下がる。最終的にはお客様が増え、気が付いた時には、当社のお客様であるスーパーなど量販店のマーケットを抑え、鯵の生食加工で日本一になっていました。

 竹田先生から、何でも良いから1番になれと指導され、鯵で日本一を目指したのが当社成長の推進力となりました。ですから、今もその考えを大事にしています。私自身が不器用だったから良かったのかもしれません。なんでも器用にこなすタイプだったら、いろんなことをやって、結果として上手くいかなかったと思います。

急速冷凍を可能にするCASシステム(対馬工場)

2年後には対馬に第2工場建設を計画

最後に今後の取り組みについてお話します。現在、当社の年商は42億円。そのうち対馬工場で年間8億円程生産しています。これを2030年までに対馬で40億円、全体で100億円まで事業拡大を図る計画を立てています。この実現のために、2年後をめどに第2工場を造り対馬での生産能力の強化を図ります。
対馬工場は、平成25年に取得したものですが、福岡にこれだけの規模の工場(現在の対馬工場)を造るとなると、土地代だけでも相当な投資になりますが、対馬は土地代が安い。対馬で鯖を冷凍加工し福岡の箱崎工場に運びますが、土地代が安いので海外で加工するよりも費用がかかりません。

将来は、ここを漁業基地にして対馬から輸出をしたいと考えています。対馬は、プサンにも近い。対馬での生産が増えれば、雇用も生まれます。この会社で働いてよかったと思ってもらえるような環境を整え、親子で働けるような職場として地域に愛される会社でありたいと願っています。

また、日本人は生食文化の歴史を持っていますから、安全な生食を安定的に提供するのも我々の使命だと考えます。毎年、多くの被害を出すアニサキスによる食中毒問題の解決にも長年取り組んできました。アニサキスは、24時間以上の冷凍か加熱処理での駆除するのがこれまでの常識でしたが、現社長が熊本大学との共同研究によって巨大な電力(パルスパワー)を瞬間照射することで、身を傷つけずにアニサキスを駆除する装置を世界で初めて開発しました。まだプロトタイプの段階ですが、機械の量産が可能になれば日本の食文化である生食を守ることに貢献できると期待しています。
水産業に携わる者として、今後は持続可能性を追求しながら経済を回すための取り組みも求められる時代です。水産物は、きちんと管理していけば未来につながる資源です。海からの恩恵を受けているということを忘れずに、豊かな海が戻るように環境に負荷をかけないよう、ヨーロッパなどの事例を学び、行政とも協力しながら環境保護に努めていきたいと考えています。

会社概要

会社名  株式会社ジャパンシーフーズ
住 所  福岡市南区井尻5-20-29
創 立  1987年(昭和62)7月
設 立  2019年3月
社 長  井上 陽一
資本金  1億円
事業内容 水産加工業
従業員  200人
URL   http://www.jp-seafoods.jp/

Books  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.139(2023年1月号)

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