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福岡の出版文化を創り守り続ける創業50年の老舗

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Trend&News ■株式会社梓書院

創業当時の会社の入口

福岡で出版文化を創造し、守り続けてきた株式会社梓書院(福岡市博多区)が創業50年を迎えた。ネットの普及、活字離れなど出版業界に逆風が吹くなか、自社の存在意義を見つめ直し、出版社から「ものがたりカンパニー」へと進化を遂げ、新たな文化と価値創造を推し進めている。九州から全国を目指す田村志朗社長に話を聞いた。

田村志朗社

「福岡の出版文化を向上させたい」

―梓書院さんは、2代にわたって福岡の出版業界をけん引役し、今年で創業50年を迎えられました。まずは、創業当時のことを聞かせてください。
田村 当社は、1972年(昭和47)12月に現会長を務める私の母が創業しました。その前に共同で出版社を興し経営に携わっていましたが、自分が目指す出版を追求したいと35歳で梓書院を立ち上げました。
その頃、出版社は東京に集中していて、福岡には本格的な出版ができる会社がなかった。先代は「福岡の出版文化を向上させたい」との思いから会社を興したと聞いています。

―当時、福岡に出版社がなかった要因は何ですか。
田村 幾つかありますが、最大の要因は流通の問題でした。東京が政治、経済の中心ですから、福岡で出版しても地元の書店に直接本を並べることができなかった。出版した本は一旦、東京に送り東京の取次会社から全国の書店に送られるという仕組みになっていました。
そのため、拠点を東京に置く方が効率は良い。地方に出版社が出来なかったのも当然といえるでしょう。それでも、書店との取次をしてくれる仕組みがあったおかげで、全国の書店に本を並べることができたわけです。
今はネットがあります。物流についても、当時は専用のトラック便だけでしたが、今はいくつもの運送会社があります。流通の発達とネットの発達、それから、人間の移動手段も発達したので、地方に会社を置いていても出版業ができる環境が整っています。

―そのような環境のなかで、よく福岡で創業されましたね。
田村 ほとんどの人が母の起業に反対したそうです。リスクよりも強い思いが勝ったのでしょうね。先見性もあったと思います。母がいなかったら福岡の出版文化は遅れていたかもしれません。当時は、女性が会社を経営することに批判的な見方も強く、女性起業家にとっては非常に厳しい時代でした。しかも、母は幼い頃に交通事故に遭い足を失いましたから、相当苦労したと思います。

創業当時の田村明美氏(現会長)。福岡に出版文化を根付かせた功績は大きい。

病院で事業承継を決意

―そうやって、福岡の出版文化を創り上げられた先代から事業を引き継がれました。どういった経緯から、事業を引き継ぐ決心をされたのですか。
田村 事業を引き継いだのは、私が29歳の時です。年齢的には、かなり早いと思います。20歳ごろはイギリスに留学していて、向こうで就職を決めていましたから、日本に帰るのはまだまだ先の事だと思っていました。母も了解してくれていました。とはいえ、私が生まれた時に母は40歳でしたから、当時の母は60歳です。電話の向こうから聞こえてくる声からは、疲れている様子が伝わってきました。女手一つで、ハンディキャップを背負いながら経営してきたわけですから、体への負担もかなりあったはずです。
それで、学校を卒業すると福岡に戻り梓書院に入社しました。29歳の若さで事業を継ぐことになったのは、母が病院で倒れたためです。現在、母は85歳で元気にしていますが、母が倒れた時、病室で事業を託されました。事業を引き継ぐのはまだ先の事だと思っていましたが、その状況では断れませんよね。それで、決心しました。

―日本の中小企業の多くが後継者不足で廃業、あるいは、M&Aによる存続を図るケースがかなり見受けられるようになりました。田村社長は事業を引き継いだ立場として、事業承継をスムーズに行うポイントは何だと思いますか。
田村 私自身、いろんな企業の事業承継を見てきて思うことがあります。同性の事業承継は上手くいかないことが多いということです。父親から息子さんが継ぐと、先代は承継したものの息子をまだ認め切れていないところもあり、経営に口を出す。女性から男性、男性から女性という形の方が上手くいくように思います。私の場合は、母が任せてくれましたから自由に経営することができました。さすがに、重要な決断などでは意見を求めましたし、先代の助言で救われたこともあります。

創業の地となった保護会館(福岡市中央区舞鶴)
地行の拡大に伴い昭和54年、博多区呉服町に事務所移転

中小企業家同友会での学び

―それでも、29歳の若さで事業を引き継ぐ不安もあったでしょうし、思うようにいかず悔しい思いをしたことも多かったのではありませんか。
田村 経営者として経験が浅いわけですから、上手くいかないことばかりでした。勉強が必要だと思い、中小企業家同友会に入会し多くの学びの機会を得ることができました。
―経営者として学ぶなかで、どのような変化や効果が生まれましたか。
田村 先代は、本を作るのが好きで出版社を立ち上げました。会社の基礎を作ったのは先代ですが、本を作ることを追求する職人の集まりのような組織でしたから、私が引き継いだ頃は、まだ個人商店的な組織と経営手法でした。同友会で学ぶなかで、企業化を推し進めたい。そのために組織化、経営の見える化が必要だと考えるようになりました。そして、自分で経営計画書を策定しました。これが、当社が変わる一番の力になったと思います。
とはいえ、最初は、上手く作れません。作った計画書を社内で共有しようとしますが、伝わらない。これではだめだと思い、社員と一緒につくるようになりました。これが功を奏しました。

―経営計画書を策定するようになって、どのように変わりましたか。
田村 毎年、経営計画書を策定し、数字で会話できるようになったことが大きいですね。会社を継ぐ前は、1年間通して、漠然と利益が上がっているだろうという感覚を持ちながら、いざ決算をしてみると会社に現金がない。なぜ、現金がないのかがわからない。そんな状態でした。
今では月次決算をおこない、決算月の翌月末までには税理士や銀行の担当者など関係者を招いて経営計画発表会を開催しています。経営計画書では、事業戦略や社内体制、職場環境の整備などについても具体的に明記し、実行できるようになりました。

様々な出版物を手がけ、福岡の出版文化の醸成に貢献してきた

出版社からものがたりカンパニーへ

―会社を説明する際、出版社ではなく「ものがたりカンパニー」という表現をされますね。
田村 「ものがたりカンパニー」は33歳頃につくった言葉です。同友会のセミナーに参加して、自社の強みや核は何かを深く考えた際に、「今までは物を売っていたが、物語を売っていなかった。出版社という自分たちの考え方を一度捨てよう」と考えるようになりました。
―それを社内で浸透させるには、かなり時間がかかったのではありませんか。
田村 理念と行動指針を毎朝唱和していますので、かなり浸透してきたと感じています。また、新しく採用する際には、理念をしっかり伝えて、それに共感してもらえる人を採用するように心がけていますので、「ものがたりカンパニー」という風土が培われていると思います。
―「ものがたりカンパニー」をどのように説明しているのですか。
田村 「貴社専用の広告代理店」と表現しています。皆さん、何かしたいことが必ず頭の中にあります。しかし、それを具体的に物語として、広く知ってもらう事が出来ていない企業や人が大半です。それを、見える化して広報によって広げるのが我々の仕事です。
それを実現するには、以前は紙による出版しか手法がないと考えていましたが、今は電子出版や漫画、SNSなどいろんなツールを使って一緒にものがたりを広げることができます。これを当社では、「ビジネスストーリープロデュース」と定義しています。企業のビジネスを一緒に作り上げていくというコンサルティングです。企業の話を聞きながらビジネスのストーリーを作っていく。そして、それを営業にもつなげていくという、広報戦略系のコンサルティングです。
「ものがたり」づくりには、事業計画も必要になる場合がありますが、私が同友会で経営計画を作る講師も務めていますので、その経験を生かしながら事業計画づくりもサポートしています。

―具体的な事例はありますか。
田村 例えば、採用に苦戦されていた地場企業の場合、コンサルティングの報酬もいただき、漫画提案をした事例があります。求人サイトに多額の広告費を使って掲載しているにもかかわらず、採用に繋がらないという悩みを抱えておられました。そこで、会社の理念や特長を漫画本にして配布し、メディアに取り上げてもらえるようサポートするところまでを提案しました。結果として、テレビでも取り上げられ、それを見た人からの応募がありました。
求人サイトなどに広告を掲載しても思うように人が集まらない企業には、当社の広報モデルがお役に立てると自負しています。

―自分たちが出版社という考えを一度、捨てることができたことで、お客さんにより近い立場に立つことができた。その変化を遂げられたことが大きかったわけですね。
田村 以前は、本を作ることがゴールでしたが、それがお客様にとってのゴールなのかというと違ったわけです。

9月に開催した「第51期経営計画発表会」には大勢の関係者が集まった

地方の出版文化を守るために連携を図りたい

―出版業界についてうかがいます。ネットの普及と活字離れの影響で市場が低迷しているといわれてきましたが、ここ数年は底を打ったという表現も見受けられるようになりました。現状をどのように見ていますか。
田村 出版不況の中で、かなりの数の出版社が淘汰されました。残った出版社が経営努力を続け、耐えているというのが現状ではないかと思っています。市場から退場した企業は多く、特に、人件費や事務所経費が高い東京ではかなりの数の出版社がなくなりました。地方の出版社は、広告主体ではなく製作系が多く、なるべく固定費を小さくした身軽なビジネスモデルを作っているので生き残ることができていると思います。一方、広告が収入源となる雑誌系は厳しくなりました。ネットに広告を奪われた形です。

―次の50年に向けてどのような将来像を描いていますか。
田村 当社は福岡の梓書院から九州の梓書院に活動エリアを拡大してきました。これから次の50年に向けて、九州の梓書院から全国の梓書院を目指したいと考えています。地方出版社の多くが生き残りを模索しています。そうした出版社と一緒にものがたりカンパニーの理念を広げたい。
先代が福岡に地方出版の文化を根付かせたいと考え、梓書院を創業しました。出版不況といわれる今、地方で出版する企業がなくなれば、地方の歴史や文化が埋もれてしまうという危機感を抱いています。そうならないよう、全国の地方出版社との連携をはかり、地方の歴史や文化を守ることが当社の使命であるとも考えます。
代理店や提携、M&Aなど様々な手法がありますが、同じ理念を共有できる企業とのネットワークを作っていきたいですね。
また、人も育ってきましたので、ホールディングス制の導入も視野に入れています。若い能力のある社員が経営者として力を発揮できる環境をつくりたいと考えています。そうやってグループ企業群を形成できたらと思っています。

法人概要

法人名  株式会社梓書院
住 所  福岡市博多区千代3-2-1 麻生ハウス3階
設立   1972年(昭和47)12月
代表   田村志朗
資本金  1,000万円
事業内容 図書出版、マンガ制作、各種企画制作
URL    https://www.azusashoin.com/

Trend&News  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.136(2022年10月号)

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