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人生最大のピンチか??

弁理士よもやま話

弁理士よもやま話  ■加藤合同国際特許事務所 会長  加藤 久

もう10年以上前なるでしょうか、当時私は「天風会」(公益財団法人天風会)の理事をやらせていただいておりました。 
「天風会」とは風力発電の会社でも「統一教会」関連の組織でもありません。中村天風(本名 中村三郎)という人物が、自己の経験から考え出した「心身統一法」を実践する組織であります。

天風は、1876年(明治9年)、大蔵省紙幣寮抄紙局(現・国立印刷局)初代局長・中村祐興の息子として豊島郡王子村(現東京都北区王子)で出生。父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたります。王子村や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学に入学しました。
修悠館時代に、柔道部のエースとして活躍していたのですが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で出刃包丁を抜いて飛びかかってきた生徒を刺殺してしまうのです。正当防衛は認められたものの、修猷館を退学となり、その後、1892年(明治25年)に玄洋社の頭山満のもとに預けられます。
天風は玄洋社で頭角を現し、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられました。ところが、その豹のように強かった天風が当時不治の病であった肺結核に侵され、玄洋社時代の面影は消え失せ、身体だけではなく、心まで弱ってしまったのです。

そのような状況下、死を覚悟して旅立った船の中で、ある聖者に出会い、ヒマラヤの麓で長い修行の結果、身体や病んでも心までやむなという心境に達し、心身統一法を編み出したのです。
私は、特許事務所を創設して間もないころ、毎日毎日この先どうなるだろうという悶々とした日々の中で「天風」の書籍に出会い、入り込んでいきました。
なぜ私がその「天風会」の理事をしているかについても、1つのドラマがありますが、それは別の機会にお話しをするとして、理事として、天風の教えをどうしてみんなにしってもらうか考えておりました。

天風は上記したように福岡にも大変縁が深い人物ですから、福岡の地でシンポジウムをすることにしました。
誰を参加させるかいろいろと考え、読売新聞のお偉いさんと、当時天風会の会長であった合田周平氏と、とある企業経営者の対談を計画しました。開催日は金曜の午後、そのあと懇親会を開催することにしました。参加者を200名とし、交通の便を考え、天神のホールで行うことにしました。同じビル内に、シンポジウムの会場と1つ下の階に懇親会会場が取れたので、絶好の会場でした。
催しのお世話をされた方はよくお分かりと思いますが、裏方の仕事は結構多く、その1つでも間違えば、大きな問題となります。当時は、私に秘書といえるような人はおらず、ほとんどの作業を自分ひとりでやっていたのです。

そして、開催日前日、木曜日のお昼過ぎ、会場の担当者に「あすはよろしくお願いします」と電話を入れました。
その時の担当者の返事に私は凍り付きました。「承知いたしました。シンポジウムの会場は予約しておりますが、懇親会会場は予約されておりませんが。」
開催まで24時間もない、それも金曜日夜の200名の懇親会会場が予約されていない。普通であれば、頭の中真っ白ですね、まさに加藤久「人生最大のピンチか?」です。
その人生最大のピンチをどうやって切り抜けたか、まさに天風さんの教えを実践しただけなのですが、詳しくは次回。

弁理士よもやま話  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.134(2022年8月号)

プロフィール

加藤 久(かとう ひさし) 
加藤合同国際特許事務所 会長 
1954年福岡県生まれ。佐賀大学理工学部卒業後、福岡市役所に勤務。87年弁理士試験合格、
94年加藤特許事務所(現:加藤合同国際特許事務所)設立。2014年「知財功労賞 特許庁長官表彰」受賞、20年会長就任。
得意な技術分野:電気、機械、情報通信、ソフトウェア、農業資材、土木建設、無機材料、日用品など。

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