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熊本の郷土料理「からし蓮根」を389年間守り続ける元祖

老舗の知恵

老舗の知恵 ■老舗の知恵 森からし蓮根有限会社17代目女将・森 裕子 氏

熊本の食文化を語るとき、欠かせないのがからし蓮根である。家庭の食卓にのぼるだけでなく、冠婚葬祭や贈答用としても用いられるほど県民の生活に根付いている。また、熊本を訪れる観光客のお土産としても需要が高い。メーカーも増え、全国的にも熊本を代表する郷土料理となったからし蓮根は、389年前の寛永九年に初代・平五郎が熊本藩主細川忠利のために考案したのがはじまりである。以来、様々な困難を乗り越え18代にわたり味と看板を守り抜いてきた。

17代目女将・森 裕子(もり・ゆうこ) さん

からし蓮根を考案した初代平五郎

熊本を代表する郷土料理として全国的にも有名なからし蓮根。その起源は389年前に遡る。1632年(寛永9)、熊本に豊前国小倉藩から細川忠利が入封する。忠利は剣豪宮本武蔵を熊本に招いた人物でもある。
入部当時、忠利は病弱だった。豊前から付き従ってきた禅僧の玄宅和尚は、なんとか健康になって欲しいと文献を漁り滋養の取れる食材を調べる。すると、前藩主の加藤清正が熊本城の外堀に非常食として栽培していた蓮根は造血作用があり、栄養価も高いということを知る。そこで、賄い方に蓮根の料理法を工夫するように命じる。30人ほどいた賄い方が、各々で料理を考える。その中に、24歳の初代平五郎がいた。平五郎は、茹でた蓮根の穴に熊本産の麦味噌と和辛子を混ぜた辛子味噌を詰め、空豆粉と卵の黄身を混ぜ合わせた衣で包み、それを菜種油で揚げた。熊本名産「からし蓮根」はこうして生まれた。

忠利は、たいそう気に入り、その後も好んで食したという。健康体となり体力もついた忠利は、平五郎に「森」姓と「鍋蓋紋」、数々の品を褒美として与えた。また、蓮根を輪切りにした断面が、細川家の家紋である九曜紋に似ていることから、明治を迎えるまで門外不出の料理として森家が一子相伝でその技を伝えた。

細川家から褒美として食器類や長持などの他、
たくさんの品が与えられた。

製法までも教える

からし蓮根を庶民が口にできるようになったのは明治に入ってからである。1878年(明治11)、14代目平次郎が現地で「森からし蓮根」の屋号で店を始めた。とはいえ、それまでは一般庶民が口にできる料理ではない。「認知度はないに等しい状態でしたから、家族が食べていくのがやっとだったようです」と語るのは17代目女将の森裕子氏である。

からし蓮根が広く知られるようになるのは、昭和になってからだ。15代目が、新聞社などを訪ね、からし蓮根のいわれや効能などを説明して回ったことで、新聞などで取り上げられ認知度が高まった。特許などを取得しなかったことも、熊本名産として全国に広がった大きな要因であるといえる。裕子氏が森家に嫁いできた頃、作り方を学びたいと多くの人が訪ねてきたそうだ。森家の当主は、そういう人たちを受け入れ、製法を惜しみなく教えた。からし蓮根をつくる店が増え、熊本を代表する郷土料理として全国的にも高い知名度を得るようになった。

百貨店や土産物店からからし蓮根が消えた

長い歴史の中で、屋台骨を揺るがすような危機にも見舞われた。1984年(昭和59)に起きた食中毒事件だ。他社が真空包装したからし蓮根でボツリヌス菌が増殖し、食中毒を起こし死者まで出た。マスコミは連日報じ、百貨店や土産物店から辛子蓮根が消えた。直接関係がない多くの同業者が風評被害から製造中止や廃業に追い込まれた。

同社も甚大な被害を受けた。裕子氏は、百貨店等に営業に回るが悪いイメージが先行し商品を置いてもらえない。「最初は断られるばかりで、商品を抱えて泣いていました」と苦しかった当時を振り返る。それでも、東京や大阪、沖縄、北海道などの百貨店で開催される九州物産展や熊本物産展に出向いて売り続けた。

厳しい時期が2年ほども続いたが、徐々にお客が戻りはじめ、10年ほど経つと、以前に増して売上が伸びた。苦しい時に、自ら営業に回って新しい販路を開拓し、真摯にお客に向き合うことを続けているうちに、全国で売れる環境が出来上がっていたのだ。大阪の百貨店では1日100万円以上を売り上げ、商品の供給が追い付かないという時期もあった。

昔ながらの製法で389年の歴史を刻んできた熊本を代表する郷土料理。
熊本市中央区で営業を続ける本店

先代の教えが困難を乗り越える力になった

休業にも追い込まれた。第二次世界大戦中から戦後にかけて油や味噌などの原料が入らなくなり、やむを得ず2年ほど店を閉めた。店を閉めれば遠ざかる客もいる。再開できるようになったが、喜びよりも不安が先に立つ。だが、再開初日、店を開けようとすると客が列を作っていた。「あの時の感激は忘れない」と先代はよく語っていた。商品や店が地域に根差していた証拠であるが、最大の要因は先代の人柄と商いに対する姿勢が多くの人を引き付けていたのだともいえる。先代は、いつもニコニコ笑って客に頭を下げていた。女将にも「近所の人や知っている人と会ったら、こちらから先に頭を下げなっせ」「商売は損得だけではでけん」といった商いの心構えを日頃から優しく教えてくれた。製法を惜しみなく教えた15代目、客に誠心誠意接した16代目、そういう主人と店だから客に支持されたわけだ。

2003年(平成15)、17代目で夫の久氏が病気したのを機に、裕子氏が社長として会社を切り盛りすることになる。手本であった先代はすでに亡くなっていたが、先代の言葉や行いは新社長を支える力となった。「つらい時も頑張れたのは、先代のおかげです」と目を細める。

18代目を継いだ息子の久裕氏にも教えは引き継がれている。16年(平成28)4月に起きた熊本地震で工場や店舗が被災し生産ができなくなり、大量の蓮根を捨てざるを得なかった。苦しい状況のなか、18代目が考案した「からし蓮根風味チップス」が活路を開いた。長期間保存でき、からし蓮根の味を手軽に楽しめ、ビールなどアルコールにも合うと人気が高まりヒット商品となった。

森家が様々な困難を乗り越えてこられたのは、初代平五郎が考案したからし蓮根を守り広げていきたいという思いと、商いや客に対する真摯さを繫いできたからだと思える。

18代目が創り出した新商品。熊本地震で被災した会社を支えたヒット商品。

<会社概要>
名   称 森からし蓮根有限会社
創   業 1878年(明治11)
代   表 森 久裕(18代目)
住   所 熊本市中央区新町2-12-32
      TEL096-351-0001
事業内容  からし蓮根の製造販売
U R  L     https://www.karashirenkon.co.jp/

老舗の知恵  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.123(2021年9月号)

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