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日本の近代化を治水で支えた「日本三大疏水の父」

九州偉人ファイル

九州偉人ファイル  ■南 一郎平

昔も今も治水が地域住民の命を守る重要な事業であることに変わりはない。土木技術が発達し気象予報の精度が上がった今日でも、日本のあちこちで水害が起き、地域に甚大な被害を与える。道路や橋が破損し交通が遮断される。家屋が水に飲み込まれ、人命が失われることもある。農作物が被害に遭う。

一方で、水のない土地では米を作ることができない。こうした地域には、他の水源から水を引く用水路を整備して水を確保した。この用水路のことを疏水(そすい)と呼ぶ。疏水は日本中につくられたが、なかでも、琵琶湖疏水(京都―滋賀)、那須疏水(栃木)、安積疏水(福島)の「日本三大疏水」は国家事業レベルの巨額を投じで作られた。これらの事業に携わったのが、「日本三大疏水の父」と呼ばれる大分県出身の南一郎平である。

一郎平は、江戸時代末期の1836年(天保7)、大分県の宇佐市金屋村で生まれた。今でこそ、一郎平たちが作った「廣瀬井手」(井手:用水路)のおかげで、水の満ちた水田が広がる豊かな土地となっているが、当時の金屋村は、高台にあり水に恵まれないことから畑作に頼らざるを得なかった。米が獲れない村は貧しく、畑に水を引き水田に変えることが村人の悲願だった。

畑に水を引く水路建設は、1751年(宝暦2)には最初の工事が始まっていた。一郎平が生まれる85年も前である。新たに用水路をつくるとなると、莫大な金がいる。しかも工事は3回も失敗していた。父・宗保も3回目の工事に関わった。一郎平に思いを託した。それほどまでに、廣瀬井手は地域住民の願いであった。

父の思いを受け継いだ一郎平は、1865年(慶応1)に工事を始めた。29歳の若者だった。仲間を集め、資金集めにも奔走した。豪商の廣瀬久兵衛が資金を出してくれ工事を進めるが、思うように工事が進まない。固い岩盤と軟弱地盤をなかなか攻略できずにいた。一郎平は、資金を集めるために、土地や家屋敷まで失い全てをなげうった。それでも足りず、手形を発行。手形の返済は滞り、2回も入牢している。

時代は明治に入り、新しい政府が出来た。一郎平は、事態を打開しようと新政府に願いでたところ、願いは聞き入れられ、後の総理大臣となる松方正義が検分に訪れた。松方は、一郎平たちや先人たちの苦難と水路の必要性を理解し、政府に働きかけた。そのおかげで、国家事業として認められ、工事は大きく前進した。そして、1870年(明治3)11月、廣瀬井手は通水に成功したのだ。

100年続いた難題を解決した一郎平に転機が訪れる。1875年(明治8)、一郎平は、当時内務省勧農局局長だった松方正義から招かれ、上京する。松方は一郎平が廣瀬井手を完成させたことを高く評価していたのだ。一郎平は、内務省農務課の土木部門で、国を豊かにする治水事業に取り掛かる。そして、日本三大疏水の「安積疎水」(福島県)、「那須疎水」(栃木県)、「琵琶湖疎水」(京都府)を手掛ける。治水以外にも道路や鉄道事業にまで足跡を残した。

一郎平は1886年(明治19)、退官し現業社を設立した。この会社は鉄道建設土木を専門とし、主にトンネル工事で大きな貢献を果たした。郷里の広瀬井手を通すためにトンネル工事に携わった経験はここでも生きたようだ。こうして一郎平は、全国を飛び回り、国の発展を支えるインフラ整備に多大なる貢献を果たしたのである。

1919年(大正8)5月15日、83歳でこの世を去った。松方正義は、一郎平を「隠れたる実業界の偉人」「国家の至宝」と称えている。まさに隠れた偉人である。

参考文献
『日本三大疏水の父 南一郎平』(梓書院)

 

九州偉人ファイル  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.132(2022年6月号)

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プロフィール

宇野 秀史(うの ひでふみ) 
ビス・ナビ編集人
昭和40年5月生まれ、熊本県出身。熊本県立第二高校、京都産業大学経営学部卒。出版社勤務を経て、独立。2017年7月、月刊ビジネス情報誌「Bis・Navi(ビス・ナビ)」を創刊。株式会社ビジネス・コミュニケーション代表取締役。歴史の知恵、偉人や経営者が残した知恵を綴る。また、経営者の知恵を後継者に伝える、知恵の伝承にも取り組む。

著書:『トップの資質』(梓書院、共著)、『田中吉政』(梓書院、解説)

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