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ペースメーカーの父

九州偉人ファイル

九州偉人ファイル  ■田原 淳(たわら・すなお)

ペースメーカーは、医療機器として多くの人の命を救い、生活の質を向上させた。国内の使用者(装着者)数は、30万人とも40万人とも言われている。それほど多くの人にとって無くてはならないペースメーカーの父を呼ばれる偉人が大分県出身の田原淳だ。

淳は1873(明治6)年、大分県東国東郡の庄屋、中嶋家に生まれた。淳は幼少の頃から勉強好きだったことを見込まれ、親戚の医師・田原俊塘(たわら・しゅんとう)の養子となる。
淳は勉学に励み東京帝国大学。科大学に進む。卒業後は父俊塘の診療を継ぐべく故郷に戻った。しばらく、父の診療所で医師として働いていたが、最先端の医学を学びたいという思いは消し難く、ドイツへの留学を父に願い出た。診療所の跡取りが帰ってきたと喜んでいた父にとって、淳の願いは辛いものだったが、俊塘は先祖伝来の土地を売り払い、淳の留学費用を工面してくれた。

偉大な発見
1903(明治36)年、淳はついにドイツに留学、マールブルク大学のルドヴィヒ・アショフ教授と出会う。ここで、淳はアショフ教授から重要な研究テーマを与えられる。当時、心臓の心房と心室は、細胞と細胞の間を満たし、体を支えたり様々な部分の形を維持する働きをもつ結合組織で分けられていて、つながっていないと考えられていた。ライプチヒ大学のヒス博士は、この2つは心筋細胞の小さな束(ヒス束)でつながっているという新しい説を唱えた。しかし、このヒス束がどのような働きをするのかについては、明らかにされていなかった。淳は、ヒス束の研究をアショフ教授から与えられた。

しかし、この研究は非常な忍耐と労力を淳に強いた。心臓の筋肉を薄くスライスし何万という標本を顕微鏡で観察する気の遠くなるようなものだった。淳は寝る間も惜しんで地道な研究を積み重ね、「心臓刺激伝導系」を発見した。心臓には「刺激伝導系」があり、そこを電気刺激が伝わることで、正しい拍動を独自に調整するシステムがあることが分かった。さらに、心臓の刺激伝導系の主要な一部である房室結節(田原結節)を発見した。淳の心臓刺激伝達系の発見によって、心臓内の電気刺激の流れを示す心電図の波形の乱れからどの部分に異常があるかを診断できるようになったのだ。

心臓の活動電流などを捉えて、波形として記録する心電図は、1903年にオランダのウィレム・アイントホーフェンという生理学者が発明した心電計で表わすことができた。しかし、描き出される曲線にどのような意味があるか解読できてはいなかった。淳が心臓刺激伝導系を発見したことで、心電図が表わす意味が理解できるようになったわけだ。淳の研究はペースメーカーの基礎理論として応用されていることから「ペースメーカーの父」と呼ばれるようになった。
ちなみに、アイントホーフェンは、心電図法を発明した功績を評され1924年、ノーベル生理学・医学賞を受賞しているが、田原淳という日本人の努力がアイントホーフェンの発明を支えたことは間違いない。

1906(明治39)年、33歳になった淳は3年半のドイツ留学を終え帰国した。ドイツでの偉業は、日本国内でも知れ渡っており、34歳の若さで京都帝国大学福岡医科大学の教授に就任する。日本病理学会総会で2度、会長を務めるなど日本の医学会の発展に尽くした。また、学生の指導にも熱心で、教授を引退した後も自宅の近くに所有していた家を学生寮として無償で提供するなど若者達のために尽くした。

参考文献:『ペースメーカーの父 田原淳』(梓書院)

 

九州偉人ファイル  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.125(2021年11月号)

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プロフィール

宇野 秀史(うの ひでふみ) 
ビス・ナビ編集人
昭和40年5月生まれ、熊本県出身。熊本県立第二高校、京都産業大学経営学部卒。出版社勤務を経て、独立。2017年7月、月刊ビジネス情報誌「Bis・Navi(ビス・ナビ)」を創刊。株式会社ビジネス・コミュニケーション代表取締役。歴史の知恵、偉人や経営者が残した知恵を綴る。また、経営者の知恵を後継者に伝える、知恵の伝承にも取り組む。

著書:『トップの資質』(梓書院、共著)、『田中吉政』(梓書院、解説)

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