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「電力王」と呼ばれた男

九州偉人ファイル

九州偉人ファイル  ■松永安左エ門

福沢桃介との出会い

「電力王」と呼ばれた実業家、松永安左エ門が亡くなって50年が経った。福岡市美術館では、「没後50年 電力王・松永安左エ門の茶」を企画している。茶人・美術収集家としても有名だった安左エ門が所蔵した茶器や資料を展示し、安左エ門の足跡をたどる催しで、10月9日から11月21日まで開催される。

松永安左エ門は明治8(1875)年に長崎県壱岐で生まれた。福沢諭吉が著した『学問のススメ』に影響を受け、東京の慶応義塾に入学する。そこで、福沢桃介と出会う。桃介は、慶応4年(1868)に岩崎紀一の子として現在の埼玉県で生まれた。慶応義塾に入ると、在学中に慶応義塾の創設者福沢諭吉の婿養子となり、福沢桃介に改める。桃介は安左エ門の七歳年上で、安左エ門にとっては兄のような存在であったのだろう。

安左エ門は、慶応義塾に入学したが中退してしまう。桃介のおかげで日本銀行に入行することができたが、これも長く続かなかった。それでも、桃介との関係は続いた。安左エ門は桃介が経営する丸三商会の支店長となる。しかし、ここでもなかなか仕事が上手くいかず挫折する。

その後、26歳で桃介と福松商会をつくった。安左エ門にとっては大きな転機となった。2人は神戸や大阪で石炭業などを営み大いに儲けた。強引なやり方をしたり、危険な商売もあったようだが、それをかいくぐり、力を付けてのし上がっていく。石炭業界が活況に沸いていた頃、日露開戦を予測して大量に買い込んだ石炭を売りさばき莫大な利益も得る。その後、相場に手を出し、財産を失う。
ここから安左エ門は、本を読み漁り、自らを変えたといえる。33歳のとき、大阪ガスからコークスの処理を頼まれ、成功を収める。その後も幾つかの会社の経営に参画し、優れた手腕を発揮した。

日本の電力制度を作り上げる

そして、安左エ門は電力事業に参入する。明治42年(1909)、福岡市で路面電車を運営する福博電気軌道(後の西日本鉄道)の設立に関わり、電力事業に携わることとなる。福博電気軌道はその後、複数の電力会社を合併し、九州電灯鉄道となる。そして、大正11年(1922)関西電気と合併して、東邦電力を設立、副社長に就任。昭和3年(1928)には社長に就任した。東邦電力は、1都11県に電力を供給するまでに成長した。さらに、子会社・東京電力を設立し、東京電燈と覇権を争った。この頃、安左エ門は「電力統制私見」を発表、電力業界の再編を推進し「電力王」と呼ばれた。

しかし、第二次世界大戦に突入すると電力会社は国の統制下に置かれることとなる。日本発送電会社が設立され、9つの会社が拝殿事業を行う1発電9配電体制が敷かれると、安左エ門は東邦電力を解散し、所沢の柳瀬壮で茶道三昧の日々を過ごす。安左エ門は実業家としての顔以外にも耳庵(じあん)の号を持ち、近代小田原三茶人の1人にも数えられる。

昭和20年(1945)日本は敗戦する。占領軍のGHQは、日本発送電会社の民営化と進める。この時、電気事業再編成審議会の会長に抜擢された。安左エ門は、GHQと対峙し、独占体制を死守しようとする日本発送電を押し切り、九電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を成し遂げた。これが、現在の日本の電力制度の元となった。

実業だけでなく、政界にも進出した。衆議院議員としてシベリア出兵に反対したり、炭鉱労働者の危険防止などを訴えている。昭和46(1971)年6月16日、95歳で波乱の生涯を遂げた。

九州偉人ファイル  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.124(2021年10月号)

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プロフィール

宇野 秀史(うの ひでふみ) 
ビス・ナビ編集人
昭和40年5月生まれ、熊本県出身。熊本県立第二高校、京都産業大学経営学部卒。出版社勤務を経て、独立。2017年7月、月刊ビジネス情報誌「Bis・Navi(ビス・ナビ)」を創刊。株式会社ビジネス・コミュニケーション代表取締役。歴史の知恵、偉人や経営者が残した知恵を綴る。また、経営者の知恵を後継者に伝える、知恵の伝承にも取り組む。

著書:『トップの資質』(梓書院、共著)、『田中吉政』(梓書院、解説)

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