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つなぐ思いが改革の土壌を育て、新しい価値を生み出す

老舗の知恵

老舗の知恵  有限会社  白糸酒造(創業:安政2年)

伝統とは、同じものを続けることではなく改革の連続、その結果といえる。何代にもわたって事業を継承していく過程では、時代の変化に対応できるよう自らを改革する風土づくりが求められる。169年続く有限会社白糸酒造(糸島市)も様々な厳しい環境に対応しながら、7代目当主の田中信彦社長が改革の土壌をつくり、8代目を継ぐ克典専務が新しいコンセプトの純米酒「田中六五」を開発、福岡をはじめ関東、関西でも高い支持を得ている。

酒造りに最適な環境

白糸酒造が酒造りを行う糸島地区は、脊振山系に属す羽金山を望み、山の中腹から流れ落ちる「白糸の滝」が福岡県の名勝に指定される豊かな自然の中にある。背振山系から流れ出た清流は質の良い米を生産するための水田地帯を育んできた。7代目当主の田中信彦社長は「江戸時代、糸島の中央あたりの旧加布里村は天領で、対馬藩や中津藩の直轄地もあったようです」と糸島地区の歴史を教えてくれた。実際、天領地ということからも良質の米が多く獲れる要所であったと想像がつく。

この地域では、70年程前から日本酒業界において酒米の王様と呼ばれている「山田錦」の栽培が始まり、今では質の高い山田錦の産地として知られるまでになった。まさに、日本酒をつくるには最適の環境で白糸酒造は時を刻んできた。 創業は、1855(安政2)年というから江戸時代末期にあたる。169年続く老舗の造り酒屋(以後、蔵元)だが、初代甚三郎が「酒屋を始めたい」と近くの蔵元で酒造りを学び創業したのが始まりだといわれる。しかし、元々は醤油の醸造を生業としていたようで、その時代まで入れると田中家の商いの歴史はさらに時代を遡ることになる。7代目信彦氏も「この地域は天領だったことから、酒造りをはじめるにあたり、代官所がおかれていた長崎まで免状を貰いに行ったという話を聞いている」そうだ。

酒税は国を支える財源

日本酒は、飲むだけでなく料理や清めのお神酒として神事にも欠かせない、日本人の生活には無くてはならないものである。それだけに、日本各地に蔵元が生まれ、地域の気候風土を生かした酒が造られてきた。旧糸島地区は12軒の蔵元が存在し、白糸酒造が建つ長糸地区でも3軒の蔵元があった。米と水に恵まれた糸島地区は、酒造りの盛んな土地であったが、現在、旧糸島地区には、白糸酒造を含め2軒が酒づくりを続けるのみとなった。

蔵元の減少は、日本酒市場が縮小したことが主な原因である。日本酒の需要は、1973(昭和48)年に170万キロリットルを超えて以降減少に転じ、2022(令和4)年には約40万キロリットルにまで落ち込んだ。ビールやリキュール類など他のアルコール類が増えたことや、新型コロナウイルス問題で飲食店が休業を余儀なくされ、アルコールの消費量が落ち込んだことなども影響していると考えられる。しかし、市場の動向だけが蔵元減少の要因ではない。むしろ、日本酒の歴史は、国の政策に翻弄されてきた歴史であるといっても過言ではない。

日本酒にかけられる税金は、鎌倉時代から存在していたというからその歴史は古い。為政者は、酒に様々な形で税金をかけてきた。江戸時代も酒から上がってくる税は幕府にとって貴重な財源であった。江戸幕府が倒れ明治政府が誕生したが、酒税への依存は以前にも増して大きくなる。1875(明治8)年、明治政府は酒造業に関する規制を緩和した。そのことで、酒造業へ参入する者が激増し、1年間で3万もの蔵元が誕生したといわれるほどである。そうして、日本中で酒造りが盛んになったことで、1899(明治32)年の酒税は税収全体の約36%を占め、地租税を抜き最大の収入源となった。その後も、酒税は国の財源を支えてきた。信彦氏も「祖父の代までは良かった」と聞いていた。

しかし、国が酒造税の引き上げを繰り返したことで、立ち行かなくなったところが廃業し10年も経たずに蔵元は半減した。昭和に入ると、第二次世界大戦の戦中、戦後の物資不足で蔵元の経営はますます厳しくなる。さらに、1947(昭和22)年に行われた農地改革(農地解放)によって、それまで土地を所有していた地主が土地を手放さなければならなくなった。田中家が所有していた土地も多くを手放さなければならなくなり、酒造りにとって逆風ともなった。

「ご先祖に申し訳ない」

7代目自身は、4人兄弟の長男。家では、跡取りとして育てられた。「中学、高校と野球漬けの日々で、後を継ぐことなど考えたこともなかった」というが、高校卒業後は東京農業大学の醸造学科に進む。この頃には、「継がないといけない」と家業を継ぐ意識を持つようになったという。しかし、会社を取り巻く環境は厳しく、両親は苦しい時期を何とか堪え忍んだ。

大学を卒業した信彦氏は、家業に入り7代目を継ぐ。「両親が資金繰りに苦労している姿も見ていたから、大変な仕事だと思っていた。しかし、自分の代で、今まで続いてきた家業を潰してしまっては、ご先祖に申し訳ないという気持ちが強かった」と当時を振り返る。
家業に入って間もなくのこと、信彦氏が26歳の時に父である6代目が病気になったため、若くして7代目を継いだ。さすがに戸惑い、不安を覚えたが、「マイナスから始めても物がある。何もないところから始めるよりも恵まれている」。この母の言葉に背中を押されたという。

戦後の日本は高度経済成長を遂げ、それとともに酒の需要も大きく伸びた。蔵元(以後、酒造メーカー)にとっては追い風が吹いた。しかし、1962(昭和37)年の酒税法の改定によって特級、1級、2級という等級制が導入され、等級によって販売価格が決められた。そのため、大量に仕入れコストを下げることができる大手は儲かった。一方、資金に余裕のない中小零細メーカーは不利な競争を強いられた。この制度は、1992(平成4)年に級別制度が廃止されるまで続いた。

古の「はね木搾り」

写真上部に吊るされている樫の木のはね木。重石を使い、てこの原理でゆっくりと酒を搾る。日本の酒造りの文化の象徴ともいわれるものである。

1989(平成1)年6月に酒類小売業免許が緩和されると、大手スーパーやコンビニが参入し全体の販売量を伸ばした。しかし、地方の酒造メーカーの商品を販売していた小売店が激しい価格競争に巻き込まれ、個人経営の小売店が激減した。そうなると、酒造メーカーも新たな販売ルートの開拓に迫られ苦しい立場に立たされることとなる。経営が立ち行かなくなり廃業する酒造メーカーも少なくはなかった。こうした厳しい環境下で、7代目は蔵を守るために奮闘した。

7代目が経営者として最も大切にしたのは「美味しいお酒を造ることで、飲む人の心を豊かにする」ことである。日本酒の市場が縮小するなか、生き抜くために多くのメーカーが経営の効率化を推し進めた。例えば、上槽(じょうそう)という日本酒を搾る工程がある。日本酒は、原料となる精米した白米と麹、酵母、そして水を加えて発酵させることで醪(もろみ)ができる。その醪に圧力をかけて搾る(圧搾)ことで日本酒と酒粕ができる。この醪を搾る工程を上槽(じょうそう)と呼ぶが、ほとんどのメーカーが機械で搾る油圧式の自動圧搾機を導入した。一方、信彦氏は、「はね木搾り」と呼ぶ昔ながらの方法を頑なに守ってきた。

機械で搾れば1日で搾れるものが、はね木搾りは2日を要する。時間だけでなく、はね木搾りは、搾る度に醪が入った袋を並べるなど機械式と比べてかなりの労力も要る。まさに、効率化とは真逆の取り組みである。しかし、「搾る時間によっても味が異なるほどデリケートなもの。酒にストレスをかけずにじっくりと搾るはね木搾りだからこそ、当社が求める酒になる」と美味しい酒造りのためには手間を惜しまない。

水に寄せた酒づくり

7代目の考え方は、8代目となる専務の克典氏へと受け継がれ、ヒット商品「田中六五」を生み出す力になったのではなかろうか。克典氏は、父と同じ東京農業大学の醸造学科へ進み、卒業後は広島の醸造試験場で醸造の知見を深める。その後、佐賀で「東一」を造っている五町田酒造で修業し自分が追求する酒を思い描くようになった。

家に帰った克典氏は、当時の杜氏に「タンク一本でいいから造らせて欲しい」と頼み込み自分の酒造りを始めた。克典氏が目指したのは、ナンバーワンやオンリーワンではなく、あくまでも福岡の定番となる酒だ。

九州、福岡の酒は昔から甘口だった。醤油も甘口。そういう食文化だった。江戸時代、出島に伝わった砂糖はシュガーロードを通り、東へ伝わった。砂糖が貴重だった頃、甘さへのあこがれは今以上に強かった。長崎や佐賀、福岡など九州の酒や醤油が甘口なのはその名残だろう。
克典氏が家に帰ったころ、「白糸の酒は甘くて飲めない」と言われたこともある。その経験から、自分の酒はこれまでと違うものを造ろうと考えた。大事にしたのは、水を生かすことだった。「地酒で一番大事なのは水です。日本酒はアルコールが15%、残りの85%が水。水の特性は酒にでます。うちの水は中硬水でミネラル分が多く少しねっとりとしているので、その特性に寄せた酒造りが大事だと考えました。徹底した温度管理などもふくめ、水の特性を酒に出せるよう工夫しました」と開発の経緯を語る。

写真右が7代目・田中信彦社長。写真左が8代目・田中克典専務。

時代が求める純米酒

地元の山田錦と水に寄せてできた酒が、純米酒「田中六五」だ。名称は、田中家がつくる酒、田んぼの中でつくるという酒造りに恵まれた環境に感謝する意味で「田中」と表記。「六五」 は、精米歩合を65%としているためだ。この精米歩合は、「東一(五町田酒造)で修業した際に65%が一番しっくり来た」(克典氏)というのが理由でもある。

精米歩合65%は純米酒に分類される。克典氏が純米酒に絞っているのは、時代のニーズにも合致しているといえる。農林水産省のデータで、以前は1級や2級に分類されていた「一般酒」と純米酒や吟醸酒、本醸造酒などの「特定名称酒」の出荷状況の推移を見ると、1998(平成10)年に113万3000キロリットルだった出荷量は、2022(令和4)年には40万4000キロリットルと4割弱にまで落ち込んでいる。特定名称酒も一般酒ほどではないが半減している。その中にあって、米と麹米だけを原料にして、醸造アルコールを添加しない純米酒(純米吟醸酒含む)が存在感を増している。1998(平成10)年に純米・純米吟醸酒は全体の7%程度にすぎなかったが、2022(令和4)年には25%を占めるまでに増加している。

販売にもこだわる。「田中六五」は、特約店のみでしか買うことができない。本社工場でも自社の通販サイトでも買うことはできない。その戦略が功を奏しているのだろう。販売については、酒の卸販売を手掛ける住吉酒販の庄島健泰社長との出逢いが大きかったという。

「伝統は育てるもの」

何代にもわたって事業を継承してきた老舗は、時代の変化に対応できるよう自ら改革を繰り返し、新しいものを生み出してきた。そのことについて7代目信彦氏は、「伝統は守るべきものではなく育てていくもの」と語る。守るべきものは、酒造りの精神であり、育てていくものとは新しい価値を生み出す風土や技術であろう。7代目にとって、白糸酒造の精神を象徴するものは「はね木搾り」。だから、はね木搾りにこだわる。一方で、仕組みや技術は時代に合わせて変えるものだと考える。例えば、事業を引き継ぐ当主は、配達や帳簿付けなど経営面を担い、酒造りは杜氏などの職人に任せるといういう習わしを変えようとしたのだ。

信彦氏は、酒造りに携わる杜氏など職人の高齢化に危機感を抱いていた。「彼らがいなくなれば酒が造れない。自分の手で酒造りをしないと事業が継続できなくなる」と考えた。そこで、克典氏が家業に入っても、配達や帳簿づけではなく酒造りに専念できる環境を整えることが、生き残るために必要だと考えた。大学卒業後、醸造試験場や佐賀の酒造メーカーでの修業を勧めたのも克典氏に酒造りを託したいと考えたからである。

こうした父の思いを受け継いだ8代目が自分で酒を造り、ヒットさせた。信彦氏の改革は、「田中六五」が出来たことで実を結んだのである。信彦氏は、「白糸酒造の新しい歴史は、息子が作っていくことでしょう」と期待を寄せる。

2013(平成25)年12月、和食が世界遺産に登録されると、海外から日本食やお茶、日本酒などへの関心が高まった。日本酒メーカーも国内での落ち込みをカバーしようと海外市場での展開を模索している。白糸酒造も、海外での展開とそのためのパートナー選びを視野に入れた取り組みを検討しているようだ。海外展開をふくめ、同社の創り出すこれからの酒を見てみたいものである。

社名と同じ銘柄の「白糸」。
「田中六五」

会社概要

名  称  有限会社 白糸酒造
住  所  福岡県糸島市本1986
創  業  安政2年(1855年)
設  立  平成16年
代  表  7代目 代表取締役 田中信彦
事業内容  日本酒・リキュールの醸造および販売
URL    http://www.shiraito.com/

老舗の知恵  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.154(2024年4月号)

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