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戦後最強の宰相・田中角栄氏に学ぶリーダー学

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Trend&News ■田中角栄元内閣総理大臣秘書官・小長啓一氏

世界各地で多発している紛争や日本の国力低下、日本企業を取り巻く経営環境の悪化はますます深刻さを増している。このような先の見えないときには、強力なリーダーの存在が求められるものだ。「田中角栄待望論」が巻き起きるのは、まさにこうした時代である。田中角栄は敗戦後の日本の高度成長を強力にけん引した政治家である。通産大臣秘書官、総理大臣秘書官として3年半にわたり田中角栄を支えた小長啓一氏に、リーダーとしての田中角栄像を聞いた。そこには、今の時代を生き抜くリーダーとしての考え方や在り方が見えてくる。

大きな存在感

―政治や国内経済の先行きに不安が満ちると、その度に「田中角栄待望論」が起き、亡くなって40年近く経った今でも「こんな時、田中さんだったらどうするだろうか」という声が聞こえるようになります。それだけ、田中角栄元総理が傑出したリーダーだったということだと思います。小長先生は、田中角栄元総理が通産大臣に就任された時から総理大臣時代も含め3年半にわたり秘書官を務められました。今回は、田中元総理のお話を通してリーダーに必要な考え方や在り方を学びたいと考えています。まずは、政治家田中角栄氏との出逢いから聞かせてください。

小長
私が田中さんの秘書官になったのは、まったくの偶然です。1971年(昭和46)7月に第3次佐藤内閣が組閣されました。当時、私は通産省(現、経済産業省)の企業立地指導課長を務めていました。新大臣が決まる前、通産省の人事担当課では大臣秘書官として3人の候補者を内々に決めていました。基準は政治家としてのキャリアです。前任の宮澤喜一大臣の秘書官が31年組であったので、宮澤さんよりも政治経歴の長い人の場合は入省28年組で41歳の私。宮澤さんと同程度のキャリアの方であれば32年組、さらに若い人の場合には35年組をあてることになっていました。

通産大臣に就任した田中さんは当時、53歳で宮澤さんよりもキャリアが長かったことから、「君が秘書官候補として田中さんと会ってくれ」と、官房長に連れられ田中さんと会いました。それが田中さんとの出逢いでした。そこで、官房長が「通産省としては、小長を秘書官にしたいと考えています」というと、田中さんは「通産省が決めたことなら何の異存もない」ということですんなりと決まった次第です。

―その時、どのような印象を持たれましたか。

小長
20年代議士を務めて来られこともあり、どことなく相手を圧倒するような、ある種大変な存在感がありました。こんな人の秘書官が務まるのだろうか、というのが率直な感じでしたね。

小長啓一(こなが・けいち)氏

1日3回の宴席をこなす人気者

―大臣の秘書官ですから、かなり多忙でしょうね。

小長
寝る時間以外はだいたい田中さんにお付き合いする生活です。田中さんはほぼ毎晩、3つの宴会をこなす方でしたから、私も初日からすべての宴会にお付き合いしました。そして、翌朝7時に田中邸に行くと、既に20組の陳情客が来ています。田中さんは、7時半から9時までの間に20組の陳情をこなすわけです。もう驚きの連続でした。

田中さんはとても人気がありましたから、お誘いも多い。原則、断らないという主義でしたから、1日1組の宴会ではとても足りません。そこで、宴会は1時間ずつに区切って6時、7時、8時と3つを組みます。

1時間の宴席で、自分の席に座っているのは最初の10分ぐらい。その後は、ひとり1人に献杯しながら自ら回ります。話が面白く、場を盛り上げて相手を飽きさせない。そして、実に手際がよく、ちゃんと1時間で皆さんとの会話を終えるのです。私が「もうそろそろ」という頃には、だいたい皆さんとの会話を終えている状態でした。自分で場のリズムを作っていましたね。ですから、「次の約束があるから」といって退席しても、皆さんもよく理解されていて不満などはまったく出ません。

―それほど多忙を極めながらも、夜中に勉強される努力家だったのですね。

小長
宴席が終わって9時過ぎに自宅にお送りして私も帰宅しますが、例えば、国会期間中は私の部下が9時過ぎに翌日の国会答弁資料を田中邸に届けます。田中さんは、10時頃には床に就きますから読む時間はないはずです。
ところが、翌日の国会答弁では答弁資料が頭に入っている。最初は、理解できませんでしたが、答弁後に田中さんから教えてもらいました。やはり、夜中の2時から3時に目を覚まして、我々が届けた資料などを1時間ほどかけて勉強すると、再び床に就く。そして、6時過ぎには目を覚まして、7時過ぎから20組の陳情客に対応する。そういう芸当ができたんです。

―毎日、朝から20組の陳情客となると、会うだけでも大変ですし陳情への対応となると相当な準備も必要となるはずです。それを毎日こなすとなると想像がつきません。

小長
初めは、田中さんの地元新潟から来る人が多かったのですが、地位が高くなるにつれ様々なところから陳情に来られるようになりました。田中邸には、陳情担当の秘書官がいました。陳情の中身は秘書官が事前に聞いて、その内容に応じて各省庁などに連絡を入れて調整を図ります。私は、役所との調整などを行う窓口として動きました。それに対して、その日のうちに役所から回答がくる。

―たとえ出来ないという回答であっても、そこまできちんと対応してもらったということで、陳情客は納得するでしょうね。

小長
陳情を受けて「検討します」といって適当に流すというようなことは絶対になかった。きちんと、しかもスピーディーに結果を出して伝える。もちろん、「ノー」もありました。しかし、そこに誠意を感じられるから、1組3分の面会でも皆さん納得するわけです。田中さんの陳情の受け方は、「誠意に溢れている」と評判になりました。

ずば抜けた決断力と実行力

―リーダーには決断を下す力が求められますが、「コンピューター付きブルドーザー」の異名をとった田中元総理は、決断力と実行力においてもずば抜けていたようですね。

小長
田中さんが通産大臣に就任した当時、一番の懸案は日米繊維交渉でした。大平正芳さん、宮澤喜一さん2人の大臣をもってしても解決できなかった難題です。大臣に就任した田中さんは、まっさきにこの問題に取り組みます。
まず、大平さんと宮澤さんが繊維業界やアメリカとどのように交渉してきたのかを私たちから聞きとりされ交渉を続けましたが、何か新しい発想を入れる必要があると考え、途中から交渉方針を変えられました。

―それまでの交渉が進展しなかった理由は何ですか。

小長
アメリカは日本の輸出量を0%以下にすること。一方、日本側は10%以上の伸びを受け入れてもらうこと。このパーセント論争だけに終始していました。そこで田中さんは、1、2%増ぐらいで交渉を決着させようと考えたのです。しかし、繊維業界としては本来の10%が1、2%ということになれば大きな利益を失うことになる。田中さんは、それを国内処置によってカバーすることで解決しようしたわけです。

―代替案は、事務方が考えたものではないのですか。

小長
事務方も幾つかの案を用意はしていました。その1つが、古い繊維機械を廃棄処分する費用を補助金によって賄おうというものです。それも、ただ業界に配るのではなく、業界が抱えている古い設備を廃棄し新しい設備を導入すれば繊維業界の競争力は各段に向上する。それなら業界も納得するだろうという発想でした。ただ、そのためには2,000億円の金が必要になるという試算が出ていました。当時の通産省全体の予算が4,000億円です。繊維業界だけに2,000億円を使うのはあり得ないという考えから、大平さんも宮澤さんも決断できなかった。

しかし、田中さんは通産大臣の前に郵政大臣と大蔵大臣を歴任し公共事業で何兆円もの予算を動かしていましたから、2,000億円という金額には動じません。田中さんは「金の事はわかった。ところで、通産省として産業政策上問題はあるか」と尋ねられました。通産省としては「問題なし」と次官が答えると、「じゃあ、この案で行こう。金額は俺に任せろ」といって、「佐藤総理に電話しろ」と私に指示します。佐藤総理が電話に出られたら「繊維問題については、2,000億円出してくれれば解決可能。頼みます」といって、総理から承諾を得てしまう。総理からすれば、2,000億円で解決できるのであればありがたいわけです。次に「大蔵大臣に電話しろ」と。それで、大蔵大臣が出ると、「総理とも話がついた。2,000億円頼む」。これで国内問題は決着に向かいます。

「この人のためなら」と思わせる力

―一般的な手続きを考えれば、順序が逆のようですが。

小長
普通は、まず、大蔵省の事務当局で議論を詰めて、2,000億円でやるかやらないかという段階になって政治家の判断を待つ。それで政治家が「出来る」と判断すれば前に進むし、「出来ない」と判断すればそれで話は終わります。田中さんはまったく逆で、政治決着を先にやってしまった。

しかし、2人の歴代大臣が決断できなかったほどの難題です。私たち事務方も、はじめは本当にできるのかという不安はありました。ところが、田中さんは言ったことをもの凄いスピードで実現していく。大蔵省、総理大臣も説得できる力を持っている政治家が我々の上司というわけですから、通産省の官僚も痛快です。こんな政治家は、初めてでしたね。田中さんと事務方との信頼関係は、この時の決着の仕方で完全に出来上がったといえます。行政の上に政治がある。本当の政治決着を見た思いです。

―官僚からの田中元総理への信頼は大変なものだったようですね。

小長
田中さんが通産大臣になった時に「自分は通産大臣になって初めて、自分よりも年下の次官を迎えることができた」と話されました。もっと若いころに務めた大蔵大臣就任当初の大蔵省の官僚は、政治家として能力があるとはいえ、大蔵大臣として力を発揮できるのか疑問だというのが彼らの本音だったと思います。ところが、その仕事ぶりは歴代大蔵大臣のはるか上をいくわけですから、大蔵官僚が「この人なら」ということで、田中さんの仕事ぶりに納得し尊敬するようになる。自分たちよりも優れた調整力、説得力、交渉力がある。政治家としては超一流。官僚になっても、当然次官になれる。そういうふうに思ったと思います。

それだけの力と地位がありながら、相手を上から目線で見るようなことは一切ない。人間同士の対等な付き合いのなかで実力を発揮されるものですから、尊敬こそすれ文句など出ようはずがないという感じでした。

最初に大臣を務めた郵政省では、次官以下ほとんどが年上でした。当時の次官たちが「郵政とは何の関係のない、しかも年下の政治家が大臣としてやってきて、本当に務まるのかと思ったのが率直な感じだった」「しかし、巧みに乗っかって、それでいて我々のメンツは一切損なわず、いつの間にか全体を掌握している」と振り返っていたのが印象的でした。

圧倒的な情報量と構想力

―理想的なリーダーですね。待望論が出るのも当然といえるでしょう。さて、リーダーには、時代の先を見通し方向性を示す力も求められます。1972(昭和47)年に発表され95万部のベストセラーとなった『日本列島改造論』を読んでも、その情報量と領域の広さ、現状認識と将来展望など具体的に記されており先見性の高さにも驚きました。
なぜ、そんなことができたのか。官僚の皆さんや関係者の支えがかなり大きいのではないかと思いましたし、巷では小長先生がゴーストライターを務められたとも噂されていたようですね。

小長
確かに、『日本列島改造論』は小長が書いて、田中さんはサインしただけだという人もいました。しかし実際は、田中さんが言われたことを忠実にまとめたということです。田中さんは、25年間の議員生活の節目として自分の考えをまとめたいと考え、本の出版を思い立たれました。

出版にあたり、私ども官僚と出版元となる日刊工業新聞の記者が一室に集められ、そこで1日8時間、田中さんのレクチャーを受けました。田中さんは、ご自分の考えを一方的に話されました。田中さんの話は面白く飽きることがない。私たちは血沸き肉躍る思いで話を聞きながら、一所懸命にメモを取りました。一方、田中さんは手元にメモや資料を持たずに話されるわけです。そのレクチャーは4日続きました。

すべて頭に入っている。驚異的な記憶力の持ち主で、しかも、それを頭の中で整理できている。地に足の着いた勉強と日頃の情報収集から、あるべき日本の将来像が自ずと見えてきたのだと思います。もちろん、正確を期すために各省庁から資料やデータを取り寄せる仕事は私たち官僚が担当しましたが。

―激務の中で様々な情報をどうやって集めたのでしょうか。

小長
全国を隈なく歩いていましたから、数年官僚を務めた人間にはとても追いつけない情報の量と質を持っておられました。選挙の応援演説で全国を飛び回ることもありましたから、地方の事情を知るのに役立ったと思います。
また、毎日20組の陳情や宴席の方々と会っていましたから、そこからも様々な情報が入って来るわけです。そうやって自分で見聞きした情報を頭に入れているわけですから、私たちではとても歯が立たないと感じました。

1972年(昭和47年)6月に発表した『日本列島改造論』。

20年で33本もの議員立法を成立させる

―田中元総理は、公営住宅法、道路法、水資源開発法、電源開発促進法、国土総合開発法、高速道路連絡促進法、新幹線建設促進法など、現在の日本の背骨ともいえる法律をはじめ、33もの議員立法を成立させました。1つの議員立法をつくることさえ難しいといわれるなか、これだけの議員立法をつくることができた要因は何だと思われますか。

小長
33本という記録は、今でも破られていません。1本の議員立法をつくるのに、1年かかりますから、33本という数字は驚異的です。しかも、田中さんは33本の議員立法を20年で成立させました。議員立法は、法案を書く段階から法制局の審議を受ける段階、そして国会に提出して衆参両院で審議をする段階、全てを議員が1人でやるわけです。ですから、1本作るだけでも大変です。それを33本もやるというのは超人的といえます。

―若い頃、六法全書を持ち歩かれていたという話を何かの本で読んだことがありました。本当ですか。

小長
議員立法は自分で法案を書いて、衆議院、参議院の法制局での審議でも説明者になります。絶対に六法全書が側にないとダメです。田中さんは、大臣になるまでの20年で33本の議員立法を作りましたから、その間は常に六法全書を持ち歩いていたというのは事実でしょう。議員立法を責任ある立場からやらなければいけないということを考えると、六法全書は必須の携行物ですね。田中さんは、大変な努力家でもあったわけです。

逃げない

―今の政治を見ていると、難しい問題は先送りして手を付けない。取り組んでも思うような結果を出せないリーダーが多いと感じていますが、田中さんは総理就任後すぐ、非常にデリケートな問題とされた日中国交正常化に取り組まれました。

小長
「やっと総理になったのだから、そんな難しい問題にいきなり取り組む必要はありません」「もっと時間を置いて客観的に様子を見た上で取り組むべき」というのが多数意見でした。しかし、2人だけの時に「自分は今、権力絶頂だ。こういう時にこそ一番難しい問題に取り組んで局面を打開し、新しい道を拓くことがお国のためだろう。それが政治家の宿命だよ」と言われました。その考え方は、日米繊維交渉の時も同じです。そんな言葉を聞くと、心が震えますよ。

―それほど急いで中国に行こうとされたのはなぜですか。

小長
田中内閣が発足する前年の1971年(昭和46)7月15日、佐藤内閣末期に米大統領補佐官のキッシンジャーが訪中し、その後ニクソン大統領が中国訪問を果たしました。アメリカが日本よりも先に局面打開をするということは、国益から見て大きな問題である。一番近い我が国が真っ先に中国との国交正常化の道を拓くべきだと田中さんは考えていました。

田中さんは1972年(昭和47)7月、総理大臣に就任すると、わずか2カ月後の9月25日に訪中し国家指導者の周恩来と毛沢東と会い、アメリカよりも先に国交正常化を成し遂げました。アメリカが中国との国交正常化を実現したのは、それから数年後のことです。

―アメリカが日本よりも先に中国と関係を構築することは、当時の日本にとってどのような影響があると考えられたのでしょうか。

小長
アメリカが日本よりも先に中国と太い関係を結ぶと、その間に日本の入り込める余地がなくなり、政治においても貿易など経済においても日本は蚊帳の外に置かれてしまい国益を損なう恐れがある。それを一番心配されていました。だから、総理になったら、真っ先にやらないといけない問題だと考えておられたのです。

総理大臣秘書官時代。総理官邸内秘書官室にて。
1974年(昭和49)12月撮影。

火中に飛び込む覚悟

―田中元総理と共にいろいろな局面に関わり、その後、大臣官房長や産業政策局長、通商産業省事務次官を務められました。退官後は1989年(平成1)にアラビア石油に入社、翌年6月には副社長に就任されました。その2カ月後にイラク軍がクウェートに軍事侵攻したことで湾岸戦争が勃発、世界に緊張が走りました。
戦争が激化する状況にもかかわらず、小長先生は副社長としてアラビアで自主開発したカフジ油田に飛び、アラビア政府とのやり取りや現地スタッフの生命を守ることに力を尽くし、1人の死傷者も出すことなく操業を続け油田を守り抜かれました。当時の記事などを読むと、田中元総理も小長さんと同じ判断と行動をとられたのではないかと感じます。

小長
アラビア石油は、サウジアラビアとクウェートの中立地でクウェート国境からわずか20キロしか離れていないカフジ沖で海底油田を採掘していました。「カフジ油田」と名付けられた油田は、サウジアラビア政府とクウェート政府から採掘権を得て日本企業が海外で初めて採掘に成功した油田で、「日の丸油田」とも呼ばれました。
当時、日本に輸入される石油は、欧米のいわゆる石油メジャーに頼らざるを得なかった。しかし、油田採掘の成功で日本が自力で石油を調達できる道を拓いたのです。それほど日本にとって重要な油田でした。

アラビア石油がカフジ油田で石油を採掘する「カフジ鉱業所」には、1,800人の従業員が働いていました。そのうち約150人は日本人でした。エネルギー資源である油田は攻撃対象にされる可能性があるため、従業員の家族には不安が広がっていました。戦争が激しさを増すなか、社長は日本政府や相手国との関係を見ながら指揮を執らなければいけないため日本を離れられない。外務省もサウジアラビアへの渡航は自粛、あるいは、制限すべきとの見解でした。

―国の威信と国益を背負いながら従業員の安全も確保しなければならない。難しい判断を迫られる状況ですね。

小長
留守家族の人たちからも戦局が厳しくなってきている状況に、日本に帰すべきとの声も上がり始めていました。しかし、サウジアラビア政府は、鉱業所を閉じて従業員は撤退すべきとは考えていなかった。むしろ、こういう時期だからこそ、増産に励まなければいけないと、アラビア石油に指示していました。

私共は、サウジアラビアから利権を頂いて操業していました。その状況下で、わが社だけが操業を止めて日本人を帰国させるということは、経営者としてはとてもできません。「今は退避する時ではない。現地にとどまって操業を続けて欲しい」と言わなければいけない。しかし、それを現地から遠く離れた東京から言っても現地スタッフには響かない。
その状況で自由に動けるのは副社長の私だと考え、就任間もない時期でしたが現地行きを決断しました。もちろん、社長には相談して了解を頂きました。

現地に飛んだ効果は想像以上でした。副社長が現地に入るということで、今は撤退する時ではないという空気が出来たようで、従業員の士気も上がりました。サウジアラビア政府も我々の判断を高く評価し、石油大臣も私と同じ時期に現地に来て激励してくれました。従業員の留守家族に対しても大きなインセンティブになりました。
この決断と行動が出来たのは、田中さんに教わったリーダーの生き様が念頭にあったからです。田中さんは、四つの力「構想力」「決断力」「実行力」「人間力」を常に説いておられました。

―AIが発達しても人の未来を創るのは人であり、また、先の見えない時代のリーダー像は変わらないと改めて感じました。田中元総理の考え方や在り方に、現代のリーダーに必要なものを学ぶことができました。大変貴重なお話ありがとうございました。

小長啓一(こなが・けいいち)氏

岡山県備前市出身。1930年(昭和5)生まれの95歳。岡山大学法学部在籍中に国家公務員上級職(法律職)試験と旧司法試験に合格。1953年(昭和28)通商産業省に入省。通産大臣秘書官、総理大臣秘書官を経て、大臣官房長、産業政策局長、通商産業事務次官を歴任。
退官後はアラビア石油社長、AOCホールディングス取締役会長、東京急行電鉄取締役、東急社外取締役、日本サウジアラビア協会長、日本クウェート協会長。ソフトウェア工業財団理事長、石油鉱業連盟理事長、日本経団連副会長など多数の重職を務めた。
現在は、島田法律事務所の客員弁護士。
2022年(令和4)瑞宝重光章受章。

Trend&News  Bis・Navi(ビス・ナビ) Vol.169(2025年7月号)

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